寺宝   (什物の紹介

 御曼荼羅

 常楽院日経上人 御曼荼羅       (妙満寺27世) (1560〜1620)




 常楽院日経唱上人は、永禄3年上総二宮領一本松に生れ、慶長5年(1600)41歳のときに、京都妙満寺第27世となった。
その学識・弁才ともに秀で、諸国を巡錫し諸宗を折伏した。

 慶長13年の「慶長法難」にて、日経上人は六条河原で耳鼻等をそぎおとされ、五人の弟子達は鼻を切られた。その後、江戸幕府は日経師弟を追放し、一所に安住することを許さず、日経は知見谷にかくれて布教し、ついで小浜・福井・小松と諸国を流浪してのち前田家の庇護をうけ加賀に赴むいた。
 しかし間もなくこの地も幕府の知るところとなり、富山へと迫害の中を弘通し、元和6年11月富山在の外輪野の三瀬(富山県婦中町)で寂した。

生涯に50余ヵ寺を建立したと伝えられる。



 境地院日秀上人 御曼荼羅

 

境智院日秀上人は、常楽院日経上人の弟子で、慶長14年の慶長の法難では鼻削ぎ刑に遭うも、京都五條に上行寺、大坂生玉前に堂閣寺を開いた。

上行寺は、
慶長14年の「慶長の法難」の後の慶長16年に、京都東山の五条橋近くに創建(境智院日秀上人開基)した「京都妙満寺」のもと中本寺である。
大正3年に下京区にあった「久遠寺」と合併し、「妙祐久遠寺」と改称し、現在は右京区嵯峨に移転している。



※ 日経上人銘の胎内文書 (「日蓮宗新聞」1996/06/01日付)
アルゼンチンに流出していた貴重な祖師像が、このほど発見され、日本に戻ってきた。(中略)この祖師像が慶長19年(1614)、慶長法難(同14年)で有名な常楽院日経上人が京都東山上行寺の祖師像として造立、開眼供養され、弟子で日経上人と共に慶長法難で受難された境智院日秀上人に与えられた御尊像であることが確認できた。(中略) 慶長法難で幕府によって追われた師弟が、わずか五年後に京都でかくも堂々たる尊像を造立し得たことには驚きを感ずる。
 


 日體上人 御曼荼羅


 
宝永3年(1706)に、高木町の題目講中の方々が、
京都洛東「上行寺」の日體上人より戴いた御曼荼羅。


※ 上行寺(境智院日秀上人開基)については、上記参考


 永唱院日鑑上人 御曼荼羅    (1806〜1869)



永唱院日鑑上人は寂光寺日鑑とも称され、江戸時代後期に近代什門教学の大成に尽力された1人。



文化3年(1806) 越前丹生郡真栗村(福井市真栗町)に生れ、10歳にして出家。

広島本照寺、山内村本行寺にて勉学に励み、
久々津本照寺、千葉本円寺、、品川本栄寺、泉南妙満寺、富士山正顕寺、
南越妙経寺、加陽本長寺、浪花蓮成寺、備前本行寺等を住じた後、
中山寂光寺22世の法灯を継ぎ、優秀な門下信徒を出した。

明治2年(1869)12月8日に遷化された。


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