HF編

 

 1.8J1RL 南極昭和基地

 

再開局後1992年に初めて出来た南極の昭和基地。1995、1996年以外は毎年交信している。はるか彼方、南極から日本人の声が聞こえて来るのは長年短波をやっていても感動する。


 2.VP8SSI サウス・サンドウイッチ諸島

再開局後、再びDXにのめり込んだ最初の大規模なDXペディション。当時は中古で買ったIC−741の100Wでの交信だった。21MHzは21.295MHzに貼りついて出始めに出来たように記憶している。(23.Mar.1992、1326UTCにQSO) 昔からサウス・サンドウイッチも超珍カントリーの代名詞の印象があったので、興奮の2週間だった。これを機に更にDXにのめり込んで行く事になる。


 3.3Y0PI ピータ一世島

史上2回目のDXペディションが1994年2月に行なわれた。3日の0731Zに14MHz、SSBでQSO出来た。この日は比較的強力に入感していて、エリア指定でのQSOだった。9エリアはこのエリア指定の恩恵を多大に受けている。まして私のような弱小局にとってはエリア指定様々である。この時は9エリア指定の途中でHB9を取り出してしまった。まあ9エリアには違いないが、それまでJAばかり相手にしていたのでこのまま0に行ってしまうのではないかと気が気ではなかった。いつまでたってもHB9ばかり取っている。きっとオペレーターがHB9AHLだったのかもしれないと後で思った。でも、取っている周波数は固定していたので、送信周波数をそこに合せてじっと待っていた。しばらくHB9を取ったら、「QRZ 9!」と言ったのですかさずコールしたら「レディオ・パパ・ジャパン」と返って来た! おおっーー!!マイクを握る手にも力が入りQSO成立。皆、HB9とのQSOが長すぎて油断していたのだろう。次にはそこで呼ぶ局には応答はなかった。その後磁気嵐や天候悪化などにより我が家ではピーターからの信号は聞こえなくなった。千載一遇のチャンスだった。


 4.BS7H スカボロ・リーフ

スカボロ・リーフからの第1回目の運用は1994年6月25日に行なわれた。わずか14時間ほどの運用だった。このころはもうどっぷりとDXにのめり込んでいて、ずーっと14.195MHzを聞いていた。最初の第一声から聞く事が出来たが、肝心のQSOはあまりにも巨大なパイル・アップでとても出来そうにもない。そうしている内にUSA指定に変わってしまった。まあ、決められた時間でまんべんなく世界中にサービスするには仕方のない事だ。ローカルに「JAに変わったら430MHzで起こして」と頼んでリグの前に布団を敷いて仮眠を取った。仮眠が熟睡に変わったのだろう家人の「電話!」の声で目を覚ました。時間は午前4時前だった。ローカルのLKFからの電話だった。聞くとエリア指定だった。信号も強い! 9エリアで無事QSO。近場だとうちのように地上高の低いアンテナの方が有利なのかもしれない。さすがにブランド・ニューだけあって、そんな時間にもかかわらず結構の人が呼んでいた。

紆余曲折があって、結局この運用はやぐらやステーが海中に没していると言う事でDXCCにはクレジットされなかった。でも楽しい夏の夜の思い出だった。この頃が一番のめり込んでいて楽しい時期だったかもしれない。

第2回(1995年4月)、3回目(1997年4月)の運用のQSL。JAからはある程度需要は満たした感があるが、世界的に見ればモスト・ワンティッド・エンティティーの第2位に君臨する超珍エンティティーだ。


 5.HK3JJH/0 マルペロ島

1999年3月9日にWのクラスターにレポートが上がった。何の情報も持っていなかったのでDXのメーリング・リストで聞いてみたら事前に情報はあったらしい。この人は以前にも単独で行っており、DXCCもOKになっているそうで今回もDXCCは問題ないようだ。それならやらない手はない。何と言ってもブーベ、マルペロは私の中では永遠の超珍カントリー(あえてそう呼ぶが)であり、いつの日かは交信してみたいと長年夢見てきた所である。1990年に行われたHK0TUも知らないのでマルペロからの信号は聞いた事も無いわけである。

しかし、Wでレポートが上がって聞いてみても呼んでいるWしか聞こえない。ご存知のようにマルペロ島は唯一上陸出来る地点はJA方向に山があって、1990年の時の様に山に登って出てくれない限り信号はかなり弱いだろう。おまけに運用はSSBに限られていて、設備も100Wにバーチィカル程度なのでよほどコンデションに恵まれないとLPによる交信は難しいだろうと感じていた。

その日から毎朝14.260MHzを聞き始めた。聞こえない日も多く、かろうじて聞こえてきてもパイルで出来ないという状況だった。それでもあきらめずにワッチを続けた結果、ついに1999年3月18日、22:41ZにQSO出来た。この日は結構良く入っていて、すぐに録音テープを回したが後で電池切れでテープが回っていない事に気が付きガッカリしたものだった。それくらい舞い上がっていたのだろう。その後もペドロは3月31日まで予定を延長して運用を続け、最後には誰も呼ばないというところまでJAにサービスしてくれた。ペドロ!マルペロをありがとう!


 6.3Y0C ブーベ島

2000年12月18日付けの「OPDX Bulletin No.490」に12/16から3Y0Cというコールでブーベ島からQRVという記事が載っていた。これによると既にQRVが始まっている事になる。私には寝耳に水の突然のニュースだった。何でもメンバーはZS、LAの科学研究隊で約3ヶ月滞在の予定らしく、OPは以前にも単独でKH5K等から運用経験の有るN4BQW、Chuck Bradyだそうだ。この人の本業はNASAの宇宙飛行士で、今回も何らかの調査に加わりながら余った時間でのQRVだと伺わせるものだった。(到着したQSLには”Medical Officer”として参加したと書いてあった)

しかし、まだブーベからの運用はしばらくお預けと思っていた私にとってこのニュースはまさに一足早いクリスマスプレゼントだった。1989年から1990年にかけて行われた3Y5Xはあいにく再開局2ヶ月前だったのでNG! ブーベ島といえば一年中氷に覆われているような絶海の孤島で、開局当時は本で眺めるだけだった。1976年発行の「ハム局DX運用マニュアル」の「世界の高値カントリーはここだ!」の中でも堂々2位にランクされている。(ちなみに1位はFO/C) また、「ここがDXの秘境・大陸別ベスト3」のアフリカ編では一番最初に紹介されている。少年はいつの日にかこんな所と交信したいと想いをはせていた。あれから25年もの歳月が流れ、少年は中年になったが想いはあの頃のままだ。ブーベ、マルペロは特別の存在だった。P5よりも思い入れは強いのだ。

しかしながら滞在も約3ヶ月と長く、またリニアアンプにビームアンテナを持ち込んでいるとの事だったので、しばらく経てば何とか出来るだろうと安易に考えていた。朝の14MHzにレポートが上がってもUSAの壁に阻まれて苦戦が続いているようだ。この頃はレポートが上がっても当地ではカスカスでしか聞こえないといった状態が続いた。また出てきたと思ったら直ぐに引っ込んでしまうというパターンでなかなかブーベからの信号を聞くこともままならなかった。加えて今年は例年になく大雪でスノーノイズにも悩まされる日々が続いた。リグとリニアの接続がうまくいかずベアフットでの運用だとか、発々の調子が悪いとか、さらに追い討ちをかけるように運用期間が3月2日かそれより更に2週間早まるといった情報も流れて来てますます焦りが募ってきた。

14.340MHz付近でハワイの局によるリストQSOが行われているとの事で連日ワッチするも肝心の相手の信号が聞こえない。皆、33とか44のレポートを送っているが聞こえない!真剣に雪でアンテナがどうにかなってしまったのかと思い他のDX局で確認をするも異常は無い模様。MCのKH6FKG、Harryと数回のメールのやり取りをしながら機を伺う毎日が続いた。中にはWARCバンドでQSOを成功させているツワモノも出てきたが、14MHz一本に集中することとする。

そうこうしていた1月28日。この日は前日からの9エリアのDXミーティング明けだったので、真っ直ぐ家に帰ってしばらく昼寝をし昼過ぎから14MHzをワッチしていた。14時過ぎに14.195MHzで結構良く入っている信号を確認。こもった声に何となく聞き覚えが有ったのか、無かったのか直感的にチャックと確信! リストではなくスプリットで本人がさばいている。信号も強い! どこを取っているか探りながらコール開始。チャックの癖をつかんで一度取った所で何局か拾っていたので、コールバックがあった所でコールしたらついに14:44JSTにコールバックがあった! ブーベ島からの信号を初めて聞いた数十分後の長年の夢だったブーベ島との忘れ得ぬQSOだった。何日も追い続けただけに感激もひとしおだった。その後2月15日にリストでCWもゲット。3月6日を最後に多くのJAに貴重なニューをプレゼントしてくれたチャックに本当に感謝したい。チャック!ブーベをありがとう!

 ここをクリック。(私のQSO後は編集してQRTのアナウンスになります)


 7.HK5MQZ/0M & HK5QGX/0M マルペロ島

 

  

マルペロ島はニューではないが、日本人(HK5QGX、高嶋OM)による初めてのDXペディションということで思い出深いQSOとなった。やはりマルペロは特別なエンティティーである。HK3JJH/0MでQSOはしているが14MHz、SSBのみで、特にCWが欲しいところである。途中何度か計画が頓挫したものの、無事に運用が開始され6月15日の夜に14MHzのCWでゲット出来た。信号は強力で山頂からの運用であることを伺わせた。これで前回のペドロの分とで両モードゲットすることが出来た。まずはめでたし! その後もとても2人とは思えない精力的な運用のおかげで、SSBで3バンド、CWで4バンドもQSOすることが出来た。

後日59誌に載った運用記を拝見したが、想像を越えた過酷な運用であったことが判り頭がさがる思いであった。本当に高嶋OMとハイロのお2人には感謝したい。どうもありがとうございました。


 8.P5/4L4FN 朝鮮民主主義人民共和国

P5と言えばここ数年間、世界中の「Most Wanted Entity」のトップに君臨し続けた「泣く子も黙る?」超横綱級のエンティティーである。DXCCにクレジットされた運用は過去たった2回しかない。(1995年5月のP5/OH2AM、1999年4月21日のP51BH) しかし、この時の運用はどちらもデモンストレーションを兼ねたごく短時間の運用で、JAからも一握りの局しかチャンスをものに出来なかった。私もP51BHの時には家に居ただけに後でクラスターを見た時は我が目を疑った。そしてそれがOH2BH、マーチンの運用だと判って益々落胆したものだった。(彼のことだからDXCCには多分クレジットされると直感したからだ)

その後は北朝鮮の国内情勢から当分アマチュア無線の運用は絶望的と思っていた。そんな中、2001年11月に国連の世界食糧計画に参加していた4L4FN、Edが2年越しの交渉の末ついにアマチュア無線の運用許可を口頭ではあるが得たとのニュースが飛び込んできた。過去の例から口頭での運用許可には一抹の不安はあったが書面での運用許可も得るよう努力するようで、これはとりあえず早めにQSOしておかなくてはならない。いつ運用中止が申し渡されてもおかしくないところだと思ったからである。

私がパケット・クラスターで知った最初の運用は11月13日の朝の28MHzだったが、残念ながらEdの信号は聞こえなかった。IC−706MKUGに14MHzのDPではいた仕方ないのかもしれない。しかし、5KHz下ではUSAのパイルが巻き起こっており何局かはQSOに成功したようだった。最初にEdの信号を確認出来たのはそれから1週間後の20日だった。190度方向からのスキャッターでかろうじて聞こえるような弱い信号だった。これは先が思いやられる。21日には14MHzにもレポートが上がったが全く聞こえない。ますます先が思いやられる。しかしローカル局はしっかりログインされていた!それからほぼ毎日のように7時前からワッチを始めた。割と良く聞こえていた25日にも直ぐにクラスターにアップされ、JAを少しやった後NA指定に変わってNG!でも何となく取る周波数が判ってきた感じだ。(UP5、10、15、20KHzときりが良い所で取る傾向があった) そして、ついに27日出始めの07:36JSTにUP15KHzでQSOすることが出来た。この時はまだあまりパイルになっておらず数回のコールでコールバックがあったので拍子抜けしてしまった。その後何局かJAとやった後すぐにUSA指定に変わってしまった。非常にラッキーだった。ログサーチでもログインが確認出来、後はDXCCにOKになるのを祈るばかりであった。
 

その後、2002年3月にYT1ADのグループも運用許可を得ているという事で北朝鮮入りをした。いざ「P5A」というコールで運用開始という段になって突然軍部からの運用中止を言い渡されたそうで結局キャンセルになってしまった。この件もあってEdの運用もDXCCのOKを得るような書面での運用許可を貰うのは厳しくなったと思っていた矢先、ARRLは2002年4月2日付けでP5/4L4FNとのSSBでのQSOをDXCCに認めるだろう」というアナウンスを発表した! どういう経緯があったかは知らないが、とにもかくにもDXCCにクレジットされたのだ。これで世界中で大勢の「DXCC上がり組」が誕生したことだろう。 (私はまだ残っているが..。) Edは2003年の6月まで運用を予定しているので、これで何年にも渡って世界1位の座を守り通してきたP5も間違いなくその座を明け渡すことになるだろう。Ed貴重なP5をありがとう!!


 9.VU4NRO & VU4RBI アンダマン&ニコバル諸島  

2004年11月中旬、突然世界で一番長く沈黙を守ってきたアンダマン&ニコバル諸島からの運用が行われるとのニュースが世界を駆け巡った。それによると以前にも運用経験のあるVU2RBI、Bharathi女子ら数名のグループが12月3日からの運用許可を得たというものだった。寝耳に水の朗報に歓喜した方も多かったであろう。何しろここは軍の重要施設があるとかでアマチュア無線の運用許可がなかなか下りなかったところである。ここからの最後の運用は1987年10月だから約17年間もの間アマチュアの電波が閉ざされていた事になる。私が再開局したのが1990年だからここからの信号が聞いた事さえ無かったのである。この運用でDXCC上がりという方も多かったのではなかろうか?

当初の予定通り12月3日に14MHzのSSBで運用が開始された。凄まじいパイルを予想していたが平日(金曜日)の昼間という事もあってかそんなに驚くようなパイルでもなく意外とあっさりとQSO出来てしまった。昔からやっている方にはさほど珍しいエンティティーでもなかった様だ。その後も精力的に運用してくれたおかげでCW、RTTY、PSK31の全てのモードでQSOする事が出来た。(CWは慣れておらずSSBでリストを作ってからのQSOで少々てこずったが..。)

その後、ほとんど呼ぶ局全てが出来たのではないかと思えるほどコールする局も少なくなった頃、大きなニュースが世界中を駆け巡った。あのインド洋大津波である。アンダマン&ニコバル諸島でも大きな被害を受けたそうだが幸いにもクルー達は全員無事で、その後はペディションは中止になり急遽非常通信に切り代わりライフラインが寸断された中、本国との連絡に大いに役立ったそうだ。奇しくもアマチュア無線の有用性を世界に知らしめる事となってしまった。後味の悪いペディションになってしまったがクルー達には最大限の賛辞を送りたい。


 10.NF6S/KP1 ナバッサ島  

1993年に日本からJH4RHF、田中さん御夫妻らも参加されて行われたNF6S/KP1。当時はまだIC-741の100Wに、わずか1.8mのルーフタワーに上げた地上高10m程の21MHzの5エレモノバンダー(Hi-Gainの155CA)で何とか粘って粘ってやっとこさQSO出来た。5エレをルーフタワーに上げるなんて無謀な事だが1991年の台風19号にもビクともしなかった。(屋根ごと飛んで行くかと思ったが..、Hi) QSO出来た時は興奮したのを今でも憶えている。今の様に色んなバンドで、さらには色んなモードでなんて考えられずどこかで1回でも出来れば大満足だった。

この時のQSOを録音したカセットテープがあったのでMP3にしてみた。(かなり昔のテープなので音が悪いが) コンデションが良かったのだろう強く入っている。まさか当時はその後20年以上もQRVが無い事になるとは思っていなかったので、このQSOが無かったらDXCCのNo.1も達成出来ていない事になる。正に虎の子の1枚だ。  ここをクリック。 (フルブレークインで必死にコールしている)


 11.YX0AI アベス島

私にとってはアベス島も昔から珍として刷り込まれていたのでQSO出来た時は嬉しかった。1992年3月YX0AIの21MHzでのSSB、CWでのQSO。当時はコンデションが非常に良くて昼過ぎまで聞こえていた記憶がある。IC-741の100Wに、ルーフタワーに上げた地上高10m程の21MHzの5エレモノバンダー(Hi-Gainの155CA)は当時のコンデションにも助けられてだろうが結構飛んだ印象がある。

最近も何度か運用の噂が流れてはなかなか実現しないが、ここはベネズエラ海軍のスケジュールに大きく関わっているのでいかんともし難い。 ここをクリック。


 12.VK0IR ハード島

1997年1月の運用以来QRVの無いハード島。私にとって後にも先にもたった1回でのQSOだ。1年延期された2015年初頭に予定されていたペデションもさらにまた1年の延期となり2016年初頭まで待たなくてはならなくなった。